渋谷を代表する商店街道玄坂。この通りの名前はかつてここに出没した山賊の名前に由来するという説もあります。その頃はさぞかしさびしい場所だったのでしょうけれども、今は賑やかな商店街になっています。さらに、屋外彫刻が沿道を飾っています。 さて、「道玄坂の彫刻」は全部で何基あるでしょうか。
①5基②7基③10基
*第3回渋谷検定出題
道玄坂から少し脇に入ったところに「東京新詩社跡」と書かれた木柱が立っています。東京新詩社は明治期を代表する文学結社で、機関紙「明星」を発刊し、ロマン主義文学の拠点となっていました。当時、石川啄木など多くの文学者がここを訪ねてきて渋谷を歩き、文章を書いています。それでは、渋谷でこの結社を主宰していた歌人は次ぎの誰でしょうか。
①北原白秋②与謝野鉄幹③齊藤茂吉
*第3回渋谷検定出題
道玄坂を登り切って、北へ下っていくと神泉に至ります。現在の京王井の頭線の神泉駅は、ほぼ谷の底にあたるところで、湧水の多いところでした。その昔から、湧水にまつわる様々な言い伝えがありましたが、明治から昭和にかけて、湧水を利用した施設が出来て大変有名になりました。さて、湧水を利用したその施設とは、何だったでしょうか。
①製薬所②醸造所③浴場
*第3回渋谷検定出題
道玄坂・宮益坂は大山街道として、江戸時代から多くの人々の往来がありました。明治時代に入って、宮益坂はとても栄えていたのですが、明治の末頃になると、急激に道玄坂に店が増えて賑わいが増しました。さて、その理由は何だったでしょうか。
①代々木練兵場を往復する兵隊が通るようになったから
②大山詣でのブームが再来し全国から観光客が押しかけてきたから
③神泉に温泉が出て、その客を当てにした大型店が競い合って進出してきたから
*第3回渋谷検定出題
渋谷円山町は、1913年(大正2年)に三業地に指定されて以来、昭和初期まで渋谷を代表する遊興地として栄えました。最盛期の大正時代には、芸者の数が400人を数えたと言われています。30年程前までは、三味線の音がどこからともなく聞こえてくる粋な街でした。 三業地とは、どんな業種の組み合わせを言うのでしょうか。
①料亭、芸者置屋、演芸場
②待合、検番、演芸場
③芸者置屋、待合、料亭
*第3回渋谷検定出題