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EVENT INFO / 2018.03.19 UP!第66回ガイドツアー 「こんな時代!あんな時代!」

しぶやコンシェルジュ(第66回ガイドツアー) 渋谷のまちの記憶をめぐるツアー 2018年3月24日(土)

①渋谷駅・ハチ公前広場・スクランブル交差点

・明治18(1885)年に日本鉄道の駅として渋谷川と宮益坂・道玄坂で 構成される大山街道の接点で、すり鉢の底に開設。現在大改造中で、二棟の超高層ビルなどの工事が完成予定の平成39(2027)年に向け進行している。
・飼い主の上野博士が亡くなった後も渋谷駅にいた忠犬ハチ公が有名になり、昭和9(1934)年に銅像ができる。昭和23(1948)年に初代の制作者・安藤照の息子の安藤士によって2代目が制作された。
・ハチ公広場とそれに続くスクランブル交差点は、外国人にも有名なスポット。

②のんべい横丁

・終戦後焼野原同然だったここに屋台が集まってでき上がった横丁。1956(昭和31)年に2階建てに改装されて、約40店舗が連なる居酒屋、小料理店、おでん屋などがある。

③センター街

・センター街は道玄坂と宮益坂の間にできたことから、こう呼ばれたと言われている。
・宇田川が、今でも暗渠で流れている。1935(昭和10)年頃から飲食店などが建ち始め、戦後1950年代には「宇田川有楽街」として、映画館・「門」などのバー等がひしめく。1980年代になって「コギャル」「ヤマンバ」「ガングロ」等の若者ファッション発信地となる。2000年代になって、地元の有志による夜回りや監視活動により、町の美化や安全に務めている。

④スペイン坂

・スペイン坂は、昭和50(1975)年に、今はない「阿羅此花(あらびか)(店の内装をスペイン風に統一していた)」の店主・内田氏がこの名をつけた。坂の高低差3.5mの崖地を23段の階段として、約100mの坂道におしゃれな店が集まる。

⑤公園通り・パルコ

・公園通りは、戦前は練兵場通りと呼ばれ、昭和40(1965)年渋谷区 役所がここに移転してきた頃から区役所通りと呼ばれた。昭和48(1973)年区役所通りと呼ばれたこの道にパルコが完成すると、「すれ違う人が美しい。渋谷公園通り」というセゾングループ(当時)の斬新なプロモーションにより「公園通り」となり、新宿や銀座と違う坂道に、商業文化が花開いた。小劇場「ジァンジァン」やパルコ劇場なども合わせて、新しい文化発信力のある街となっていった。
・2019年開業を目指して、劇場や店舗を含めた約100Mの超高層ビルが建設中。

⑥竹久夢二住居跡

・竹久夢二の絵は、愛と悲しみをたたえた“かわいい”の元祖として今も人気を保っている。大正時代には「黒船屋」に代表される、目が大きくつぶらで夢見がち、今にも折れそうに細身の「夢二風美人」で一世を風靡した。
・1921(大正10)年から1924(大正13)年まで渋谷に住んだ。ここで「どんたく図案社」を設立して、グラフィックデザイナーの先駆けとして当時の先端を行く絵柄で広告ポスターなどを制作していた。渋谷で関東大震災に遭い、筆のたつ夢二は直後に「渋谷百軒店夜景」を書くが、この情景は当時の貴重な記憶であるとともに、夢二の大正ロマンの終わりをも告げているようである。

⑦道玄坂小路

・道玄坂と文化村通りを結ぶ道で、飲食店が密集しており、スパゲティーをフォークとスプーンで食べさせた元祖壁の穴や台湾料理の麗郷など懐かしい店がある。

⑧名曲喫茶ライオン(百軒店)

・1923(大正12)年の関東大震災直後、箱根土地株式会社(現在のコクド)が被災した下町や銀座の資生堂分店・天賞堂・精養軒など有名店・老舗を誘致して開発した街。宮益坂から「千代田稲荷神社(元は江戸城内にあった)」を移設した。その後、飲食店や映画館、カフェ等が入り大正ロマンの当時のモダンボーイ(モボ)たちのたまり場になった。
・名曲喫茶ライオンは1925年(大正14年)に建てられて今も営業している。現在の建物は空襲で焼けた建物を1950年(昭和25年)に当時のデザインと同じように再建された建物。

⑨千代田稲荷神社(百軒店)

・百軒店開発の際、商売繁盛を願って、宮益坂から「千代田稲荷神社(元は江戸城内にあった)」を移設した。

⑩ランブリングストリート

・ランブリングとは“ぶらぶら”とか“ゆっくりのんびり”という意味で、昼なアンニュイな雰囲気が漂う。渋谷の繁華街には50余りのライブハウスが点在するが、その多くがビルの地下にあるので目につきにくい。この通りの両側はTSUTAYA O-EAST・O-WESTなどライブハウスの他、夜半から朝まで踊れる有名クラブも軒を連ねる。

⑪料亭三長

・地区60年以上ある日本家屋を改装した趣のある佇まい。割烹、和食レストラン、バーがある。戦後まもなく復興を果たしたが、二代目女将を失って以降、長い間閉鎖していたが再開し、料亭の粋な佇まいを維持し円山花街の活性化を牽引している。

⑫花階段(三業通り)

・「三業地」は政策によって1913(大正2)年から1940年代・戦後に廃止されるまで続いた三業種営業許可地域のことである。三業とは「芸者置屋・料亭・待合」に限定され、周囲15000坪の範囲が対象地域であった。
・三業通りは上り下りのS字カーブの道で、気取りのない飲食店が軒を連ねている。その先の左側に円山花街の繁栄を偲ぶ縁(よすが)として花階段がある。これは、芸者衆の裾捌きを気遣う蹴上げの低い階段をこう愛称している。

⑬道玄坂、道玄坂の石碑

・名前の由来は定説がないが、「道玄坂供養塔」には、「渋谷氏が1525年に北条氏綱に滅ぼされた時、その一族の 大和田太郎道玄がこの坂の傍らに道玄庵を作り住んだ」 とされている。日清・日露戦争後に代々木練兵場が出来て軍人の往来も増え、練兵場に通う兵士たちの買い物や将校達の丸山遊郭での宴会など、明治の末には商業地として栄え始めた。
・関東大震災後の区画整理での道幅の拡幅し、丸山三業地の発展と併せて賑わい、戦後の区画整理で現在の姿になった。1991(平成3)年から3年かけて、御影石やブロンズの彫刻が、道の両側に3体ずつ、入り口に1体、計7体設置され今に至っている。

⑭恋文横丁

・戦後間もない頃、今の109裏側の2Mほどの狭い道に一軒当たり2、3坪のバラックが40軒ほどひしめくマーケットがあり、1948(昭和23)年頃から英語・仏語に堪能な古着屋さんが、ホステスが持ち込む米兵へのラブレターの翻訳や代筆を手掛けていた。
・1953(昭和28)年に丹羽文雄がこれをモデルにして小説 「恋文」を書き、この一帯が「恋 文横丁」と呼ばれ、田中絹代監督で映画化された。一時は観光バスも泊まる名所となったが、1965(昭和40)年に火事にあい、その後店も去り、跡形もなくなった。

⑮東京新詩社の碑

・与謝野鉄幹は1899(明治32)年、京都から渋谷に転居し「東京新詩社」を結成、これにより新人作品発表の場とした。鉄幹の「益荒男(ますらお)ぶり」で勇健な歌を詠む鉄幹に惹かれた晶子は、翌年上京し、鉄幹と結ばれる。才媛晶子の出現により「明星」を発刊し浪漫主義文芸を形作り短歌の黄金時代を築いていく。
・晶子は渋谷で代表作「みだれ髪」を発表して大ブレークする。奔放な空想と大胆な恋愛感情を詠い情熱歌人と言われた。社友・石川啄木、北原白秋など多くの文人達が渋谷に通い始める先駆けとなった。

ツアーの募集案内情報

こんな時代! あんな時代!
渋谷の発展を支えた明治・大正・昭和・平成の時代を遡って、
ディープな渋谷のルーツを探索する

開催日時
2018年 03月 24日(土)13:30
集合場所
JR渋谷駅 ハチ公広場(黒いサインが目印)
*雨天決行
会費
ツアー参加費 1,000円、交流会参加費 2,500円
*当日徴収
案内PD
*案内PDFを印刷の上、FAXからのお申し込みも可能です。

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